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【丸善創業150周年】出版物で辿る丸善の歴史 ~大正から戦前・戦中編~
今年は丸善の創業から150年を迎えます。
この節目の年に丸善の出版物を全12回の連載で振り返ります。
それぞれの時代を象った、丸善グループの写真や画像をご覧ください。
丸善出版 創業150周年記念プロジェクトチーム
<< 明治時代編 |
大正から戦前・戦中 大正元年~昭和20年(1912年~1945年)
明治43(1910)年に竣工した日本橋の本社屋 4階建てエレベーターまで設備された、日本初、赤煉瓦造りの鉄骨建築であった。 帝国ホテルでの落成披露パーティには、記者として徳富蘇峰、夏目漱石などが出席した。 1階は洋品、文房具、国内刊行書、2階は洋書、3階は事務室、4階はストック置場という割り当てになっていた。 この社屋は、大正12(1923)年の関東大震災の猛火に包まれ全焼。 |
関東大震災で全焼した日本橋の本社屋 明治43(1910)年に竣工した日本初、赤煉瓦造りの鉄骨建築の日本橋の本社屋(左写真)は、大正12(1923)年の関東大震災での猛火に包まれ全焼した。地震による大きな被害は受けなかったが、9月1日の午後3時ごろに日本橋堀留付近に起こった火災が延焼し、翌9月2日の明け方には猛火に包まれて全焼してしまった。鉄骨は飴のように曲がり、崩れ落ちた煉瓦や石材がうず高く積み重なった。 |
インキの製造販売 創業間もない頃、学校や学生の増加に伴い、インキの需要も増大した。しかし輸入インキは高価すぎ、家内工業で作られたインキには粗悪品が多かったことから、明治18(1885)年に現在の日本橋店の敷地内で「丸善工作部」がインク製造を開始。工作部製のインキはしばしば博覧会等に出品し賞を受けて、のちの「丸善インキ」「丸善アテナインキ」として一時代を築く商品となる。大正の初めには駒込工場、大正12(1923)年には日暮里工場が操業した。上の写真は大正期の駒込工場での「丸善アテナインキ」製造風景。右側には監視役の男性が写っている。 |
ローヤルタイプライター 大正3(1914)年に、近代的な機能と性能をもった米国製「ローヤルタイプライター№5」の日本および満州国の総代理店となって販売に力を注いだ。販売価格は「№5号機」で195円、型・機能を改良した「№10号機」で240円と、一般家庭でも無理ではない価格での提供だったが、更なる家庭への普及を目指し、「コロナポータブルタイプライター」の国内一手販売権を得て一台100円の特価で販売した。300台限定ということもあり、あっという間に販売を締め切る盛況ぶりだったという。 |
社旗(上写真)と入魂式(下写真) 社旗は、従業員の士気を鼓舞する象徴となるものとして、昭和12(1937)年に制定。日華事変が起きた時期でもあり、旗が組織を代表するという機運が高まっていた時代背景もあった。制定された社旗は、紫紺の地に「マルMマーク」が白い糸で刺繍され、旗の三方を金色の房で装飾したもの。昭和15(1940)年1月元旦から本支店一斉に掲揚することを決め、これに先立つ昭和14(1939)年11月に、日本橋の氏神である日枝神社の神官による入魂式を行っている。(下写真) |
大正から戦前・戦中の丸善の出版物
大正期から理工系出版物が多数を占めるようになり、大正から昭和の戦前までの時代が、理工系専門書出版社としての小社の性格を決めました。この時代の小社の出版物の特徴は次の通りです。
1. 理工系の中でも化学と建築・土木が多く、次いで電気で、理工系全般に
わたって幅広く出版していた訳ではない。
この傾向は、戦後から高度成長期に至っても変わらなかった。
2. 化学も基礎化学は少なく、その多くが化学工業関連書で、建築・土木、
電気と並んで、途上国がテイクオフするために必要とされる専門書であった。
3. 医書、薬学書も少数ながら継続して出版していた。
『理科視察 世界一周記』 スイス、ドイツ、英国、米国を国費で周り、各国の理学思想の普及、 工業の発展、富国強兵の実態を見聞した記録。 大正元年(1912)発行 370ページ 著者:亀高徳平(1872-1935)有機化学者、高等師範教授、雑誌「化学知識」発行 「緒言」前段では“此著ある所以のものは予も亦国費を以て欧米先進国を視察し得たのであるから…予の見聞せし所、感ぜし所を公にし多少たりとも邦人の参考に資するは寧ろ予の義務と信じたからである”と使命感を前面に出すが、後段では“理科に関することのみにては乾燥無味に失するが故に地理、風俗、宗教、遊戯等に関することをも加味し、且つ、失敗談をも有りの儘に告白し一は此書の興味を増し一は予の一生に於ける此の大なる出来事の真率なる紀念となさんと志した”と本音を吐露している。国費で外遊と認識しながら一方で私的な紀念と憚らずに公言するところに、この時代の知識人の精神の一端を窺うことができる。 |
『有機製造工業化学』 日本の黎明期の化学工業を総覧する唯一無二の書。 大正2年、3年(1913,1914)発行 上・中・下巻 全2,000ページ 著者:田中芳雄(1881-1966)東京大学教授 喜多源逸(1883-1952)京都大学教授 日本の工業化学を開いた草分け 本書は昭和5年と6年に改版が出版されたが、改版の「緒言」に“第一版は大正二年の創刊にして,幸い世の称賛を博したりしが、大正十二年の関東大震災に遭遇して原版の全部を焼失するに到れり。当時書肆は速かに改版の運びに到らんことを求めしも…今日迄絶版の儘に過ぎたり。然るに近時書肆の督促頗る急なるものあり。…茲において著者等は全部の改版の完成を見るに到れり” とあり、小社社屋が関東大震災で焼失したことによる深い爪痕と震災後の逼迫した様子が窺われる。 (上巻:油脂、石鹸/中巻:製糖、製紙、セルロイド、人絹、酵素・発酵/下巻:石油、石炭、染料) |
『通俗結核病論』 結核の正しい知識とその予防法を一般向けに解説した書。 大正8年(1919)発行 320ページ 著者:遠藤繁清 「緒言」に“肺結核の死亡率は1/3に達し、…これの予防知識普及の方法は二、三に止まらずと雖も、通俗教科書の刊行は其適切なるものの一なるべし。…世人の多くは只結核菌の怖るべき一面のみを知りて、抵抗力保全増進の尊むべきを覚らず、徒に肺患者を厭悪して…活力の消耗即ち抵抗力の減弱こそ結核発病の原因なるを解せざるなり。…結核病に関する概念と、予防療養法の真髄とを理解せしむる事は…きわめて緊要なるや多言を要せず。然れども…一夕の衛生講話…医家の簡単なる口述等のよく尽すべきにあらざるや論無し。…該病蔓延の防遏と一般衛生の向上とに対して、多少なりとも貢献するを得ば…” とあり、昨今の“正しく恐れる”という考え方と同じ姿勢であることが興味深い。 “通俗”はいまではいい意味に使われないが、かつては“一般向きであること,誰にも分かりやすいこと” としていい意味で使われた。明治・大正期に“通俗”を冠する書名の刊行物を十数点出版している。 |
『河川工学』 河川、海など水に関する工学すなわち水工学の専門書。 主に運河開削、河川改修を扱う。 大正7~11年(1918~1922)発行 第1~4編、全1,800ページ 著者:君島八郎(1876-1955)九州大学教授 本書は同じ著者の『君島大測量学』(丸善)とともに戦前土木名著100書に選ばれた。戦前土木名著100書に小社刊行物は19点選ばれている。
『日本築港史』(丸善,昭和2年) 本書も戦前土木名著100書に選ばれた。著者・廣井勇(東大教授)は難工事の末,小樽に日本初のコンクリート製長大防波堤(小樽築港)をつくったことでよく知られる。廣井は冬の季節風が吹き付ける外海の荒波に対峙する防波堤をつくるため,工事中悪天候の夜はまんじりともせず夜中に起きて現場に赴き,工事現場を点検するなど朝早くから夜遅くまで献身的に働いた。防波堤は建設から100年以上経過した現在も立派に機能している。また東京大学・土木工学科で多くの門下生を育てたことなど,大変人望の篤い技術者・研究者であった。 |
『大南洋地名辞典』 フィリピン、マレーシア、北西ボルネオ、タイ、仏領インドシナの小項目辞典。 昭和17~18年(1942~1943)発行 第1~4巻、全2,400ページ 著者:三吉朋十(1882~1982)三井物産から南洋経済研究所へ 戦時中の刊行。当時は用紙配給が厳しく制限され、本書のような大著の出版は例外。国策に沿ったものであったからこその出版だが、本辞典『第1巻 比律賓』の「緒言」には以下のような記述があり、偏狭な国家主義に染まらない健全な精神が保たれていたことがわかる。 “四百年前に西班牙が占領してからは著しく欧州文化の感化を受けて地名にも多くの転化が起こった。1898年米西戦争の結果、本群島が愈々米領となるに及ぶやルーズベルト,ウィルソン,ワシントンなどの名が群島の新開地名に冠され混沌たるものとなってしまった。…凡そ地名は因って起る所があって、…ミンダナオは「マギンダナオ」という土語で「汎濫」という意味、パラワンは「パラグワ」即ち「雨傘」ということから来ている。斯くの如く比律賓群島の多くの地名にはそれぞれ深い意味がある…”(西班牙:スペイン) |
『化学工業通論』 化学工業全般の発達、理論、技術の解説書。 昭和16年(1941)発行 930ページ 著者:厚木勝基(1887-1959)東京大学教授 開戦直前の刊行。当時は出版取次を独占した国策会社・日本出版配給(株)を通じてしか書籍は流通しえなかった。また用紙供給も厳しく制限された。このような状況下、小社は優先されて,本書のような大著を出版することができた。 「序」に“繁簡よろしきを得ぬ点も多からうし、誤謬も少くないであらうが、併し経済方面の好学者は、本書によつて化学工業の技術的全貌を理解し得やうし、化学工業技術者は自己の専門外の事項に就て、技術的常識を会得出来やうし、又化学工業の学習者は、全面的の参考書として利用し得やう。自画自賛の諓をまぬかれないが、とも角、多少は世の役に立つであらうと考へて、敢て刊行した次第である” とある。 こうした読者の想定や“多少は世の役に立つ”という書きぶりは現在でも理工系便覧・事典に踏襲されており、定番ともいえる序文のパターンがこの時代に現れているのは興味深い。 |
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