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【丸善創業150周年】出版物で辿る丸善の歴史 ~高度成長期Ⅰ編~

今年は丸善の創業から150年を迎えます。

この節目の年に丸善の出版物を全12回の連載で振り返ります。

それぞれの時代を象った、丸善グループの写真や画像をご覧ください。

 

丸善出版 創業150周年記念プロジェクトチーム

 

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高度成長期Ⅱ(昭和40年~オイルショック) >>

高度成長期Ⅰ 昭和30年代(1955年~1964年)


    

第二丸善ビル新築

第二丸善ビル新築は、日本橋通三丁目の本館の建設に続いて、当社としては第二の大工事であった。既に早くからその必要を痛感していたが、事務機械の大型化が益々進む状況により、猶予すべきでないと考え、昭和34年3月14日の取締役会でその建設を決定し、昭和35年10月17日に落成式を挙行した。要項は次の通り。

  住所 : 中央区日本橋江戸橋三丁目二番地(現日本橋三丁目九の二)

  敷地面積 : 1065.88平方メートル(322.43坪)

  建物の延面積 :  11,784.95㎡(3,564.96坪)

  建物構造 : 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階、地下2階建て 

竣工と同時に地上1階及び3~9階を貸事務室に、地上2階を当社事務機械部事務室に、また地下1階は、当社の事務機械の常設展示場「丸善ビジネス・マシンセンター」に、地下2階を倉庫として賃貸する事にした。

昭和30年代にはその他、本社関係で淡路町ビル増築、第四丸善ビル新築、日暮里工場改築、また、支店・出張所は、仙台支店店舗及び事務室増築、福岡支店の増改築、広島支店の新築を行っている。

 

 

文芸季刊誌「聲(こえ)」

編集同人:大岡昇平,中村光夫,福田恆存,三島由紀夫,吉川逸治,吉田健一

昭和33年(1958)~36年(1961)発行(計10冊),B5判,200ページ,250円(1年分1,000円)

本誌に当社出版部(当時)はまったく関わっていないが、当社のエポックであったことは間違いないので、ここで紹介する。本誌を担当したのは宣伝部(当時)の「學鐙」編集室であった。以下、『丸善百年史』と「聲」の発刊の辞からの引用であることをお断りしておく。

戦後何年か経った頃、上記編集同人は「鉢の木会」という親睦会をもち、毎月会合を重ねていた。その会合の中で、各氏が独自の芸術的見地に立つ文芸季刊誌を発刊する計画を抱くに至った。一方、当社はこの文芸季刊誌が英米仏独の文学・美術などに関する動向と新刊書情報を掲載する意図があるのなら、同誌と提携して当社洋書部門の充実がはかれるという動機があり「鉢の木会」に協力することになった。実際、当社の希望に添って毎号外国文学書の新刊紹介に多くのページが割かれた。以下、創刊号の発刊の辞を再掲する。

 『聲』は単なる同人雑誌ではなく、六人の同人によって編集された季刊文学誌である。私たちはいはゆる文学運動を目ざすものではない。理想は個人のものである。六人の同人には六つの理想がある。しかし、それぞれ異なつた理想にもかゝはらず、それを支へる個性と才能をたがひに信頼しあつてゐる。同様に、私たちは私たちの信頼する人たちにその協力を求める。 強ひて私たちの理想を言ふなら、「書きたいものを、書きたいときに、書きたいだけ」書き、さういふものをもつて『聲』の全誌面を埋めたいといふことである。それがまた、さいはいにして読者の信頼を得れば、これ以上の喜びはない。

 

アテナインキのPR用扇子の原画

得意先への挨拶時に配った丸善アテナインキのPR用扇子(現在でいうノベルティ)。原画は、当時の新進画家によるもの。

岡本 一平(おかもと いっぺい)

日本の漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。画家・岡本太郎の父親。また同じく風刺漫画家かつ洋画家の池部鈞の義兄。明治43年(1910)に東京美術学校西洋画撰科を卒業し帝国劇場で舞台芸術の仕事に関わった後、夏目漱石から漫画の腕を買われて大正元年(1912)に朝日新聞社に紹介されて入社し、漫画記者となる。朝日新聞を中心に新聞や雑誌で漫画に解説文を添えた漫画漫文という独自のスタイルを築き、大正から昭和戦前にかけて一時代を画し、美術学校時代の同級である読売新聞社の近藤浩一路とともに「一平・浩一路時代」と評された。年昭和4年(1929)5月に刊行を開始した『一平全集』(先進社、全15巻)に5万セットの予約が入ったのを機に、同年12月から年昭和7年(1932)3月にかけ、一家でヨーロッパを旅して漫画漫文集『世界漫遊』などをものした。また「一平塾」という漫画家養成の私塾を主宰、近藤日出造・杉浦幸雄・清水崑らを育てた。

 

 

横山 隆一(よこやま りゅういち)漫画家、アニメーション作家。

政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告や絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた。キャラクターとしてのフクちゃんは、昭和11年(1936)1月25日に東京朝日新聞(現:朝日新聞東京本社)で始まった連載4コマ漫画『江戸っ子健ちゃん』の脇役として登場した。着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて主人公の健ちゃんよりも人気が出たため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた(スピンオフ作品)。その後も『フクちゃん』シリーズは、連載媒体を幾度か変えながら、年昭和46年(1971)まで長期にわたり連載された。

 

  


東郷 青児(とうごう せいじ)日本の洋画家。

夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷をモデルにしている。

 

 

山下 新太郎(やました しんたろう)洋画家 日本芸術院会員。

東京・根岸の東京一とも言われた表具師の家に生まれる。幼少時から絵画に親しみ、明治34年(1901)、画家を志望して藤島武二に師事し、木炭画を習う。同年、東京美術学校に入学、同期に、青木繁、熊谷守一、和田三造などがいる。明治43年(1910)、帰国。大正3年(1914)有島生馬・石井柏亭らとともに二科会を結成。昭和6年(1931)、再びパリへ遊学しギメ東洋美術館所蔵の屏風絵を修復、この功績で翌年フランスよりレジオンドヌール勲章を授与される。昭和10年(1935)、二科会を退会し、帝国美術院会員。昭和11年(1936)、一水会を創立、昭和12年(1937)、帝国芸術院会員。昭和24年(1949)、日展運営会常任理事。昭和27年(1952)、国立近代美術館評議員。昭和33年(1958)日展理事、昭和36年(1961)同顧問。画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。またパリ滞在中、表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのをきっかけに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。

 

 

川島 理一郎(かわしま りいちろう)洋画家。栃木県足利市出身。

明治44年(1911)渡仏しパリのアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに学ぶ。大正元年(1912)サロン・ドートンヌ入選、大正2年(1913)アカデミー・ジュリアンに入り、ジャン=ポール・ローランスに師事、大正8年(1919)帰国。大正9年(1920)年より大正11年(1922)まで英国、フランス、イタリアを回り、大正15年(1926)国画創作協会を創立。この間たびたび渡欧。昭和24年(1948)日本芸術院会員、昭和25年(1949)日展運営会理事、昭和33年(1958)日展理事、昭和40年(1965)勲三等瑞宝章受章、昭和44年(1969)日展顧問、没後従四位勲三等旭日中綬章。

 

 

 

高度成長期Ⅰ(昭和30年代)の丸善の出版物


 出版業界は昭和30年(1955)には戦前の規模に回復し、その後わが国の高度経済成長の波に乗って同等かそれ以上の成長を遂げた。日本の名目GNP(昭和55年(1980)まではGDPでなくGNP)は昭和30年の8兆3,380億円から39年(1964)には29兆4,300億円と3.5倍に拡大し、この間の年平均成長率は15.5%と凄まじいものであった(内閣府)。出版業界の売上は昭和30年の547億円から39年には2,041億円と3.7倍になり、GNPの成長率を上回って伸長した(出版年鑑)。

 60年安保闘争という激動の年もGNPは前年比21.4%も伸びたが、それだけ日本が貧しかったという見方もできる。昭和39年の東京オリンピックは高度成長の真っ只中で開かれたイベントであり、2020年の東京オリンピックとは質的に異なることに留意すべきではないだろうか。

 この間、当社の出版も確実な成長を遂げた。この間の当社出版の特徴は以下の通り。

1. 理工系学協会との絆が一層強くなり、学協会が編集母体の刊行物を継続して出版するレールが敷かれた。昭和36年(1961)から40年までに出版した学協会編の便覧類は19点であったが、そのうちの11点が改訂版であったことからもこのことが窺える。
2. この間の出版物はほとんどすべて理工系であり、当社はこの頃から取次、書店、読者から理工系出版社と見られるようになった。一方で、理工系出版社としてしか見られなくなったともいえる。
3. 『実験化学講座』という当時類をみない画期的なシリーズを刊行し、本講座はその後規模を拡大して現在の第5版に至る記念碑的な一大企画となった。
4. この時期に“Maruzen Asian Edition”と称して多数のリプリント版を出版した。昭和35年(1960)の当社の刊行点数は27点であったが、同年のリプリント版は59点に達した。戦後「海賊版」が横行し当社も苦しめられたが、当社は原書出版社の承諾を得た原書を翻刻して、原書より低価格のリプリント版を学生や研究者に提供した。

 

 

 

 

実験化学講座』

日本化学会 編

昭和31年(1956)~34年(1959)発行

A5判 400~600ページ 全26巻(33冊) 定価1,000~1,500円

 この時期にこの規模のシリーズを毎月出版できたのは、現時点から振り返ると驚異的というほかはない。

400人に上る執筆者は関係する文献をつぶさに渉猟し、該当の文献に記載されている実験を再試したり、当時国内で入手困難な試薬を合成するなど、いまでは考えられない労力を費やしたと『丸善百年史』に記されている。また、組版・印刷においては化学式や数式を含む欧文交じりの原稿を手作業で組版し、さらに亀の子の化学構造式まで組版したので非常に時間がかかった。図は専門の職人が原稿をトレースし、図中の文字もその職人の手書きであった。そのため、1日に出校する校正刷はわずか数ページで、現在の組版ソフトによるスピードとは比べものにならなかった。

 執筆者、印刷所ともにいまとは比較にならない労力と手間をかけたが、執筆者はその労を厭うことなく、執筆者に選ばれたことは名誉であり、執筆できて大変勉強になったという声が圧倒的であった。その背景にあったのは「戦中・戦後の十数年を、私どもは三猿主義の遵奉に等しい生き方をしてきた。……今ではこれ(実験化学講座)によって私どもが過去十年余り味わってきた混迷から脱却することができると深く信ずるに至っておる」(本講座の「序」)という化学の立て直しを自分たちが担うという強い使命感の共有ではなかっただろうか。

 本講座はその後『続実験化学講座』(全14巻(15冊))、『新実験化学講座』(全21巻(36冊))、『第4版 実験化学講座』(全30巻)と補遺・改訂を重ね現在の『第5版 実験化学講座』に至っているが、名実ともに当社の最大の財産といって過言ではない。

 

 

建築学便覧』

日本建築学会 編

昭和31年(1956)発行  A5判 2,430ページ 定価3,500円

『建築学便覧』の前身は昭和4年(1929)に刊行した『建築工学ポケットブック』でこの本は3回改訂され述べ3万部に達した。本便覧も当初はポケットブックの改訂という位置づけであったが、昭和27年(1952)から実施された建築士試験制度に耐え得る内容とすることを初め、改訂では間に合わないと判断して新たな便覧出版を目標に編集活動にはいったと「序」に記されている。本書は重版を重ね昭和43年(1968)までに累計33,000部を数えた。その後、2分冊(Ⅰ計画,Ⅱ構造)とした第2版の『Ⅱ構造(15,000円)』を昭和52年(1977)に、『Ⅰ計画(25,000円)』を昭和55年(1980)に刊行した。『計画』は6,000部、『構造』は10,000部に達したものの重版に至らなかった。当時いかに初版ロットが強気であったかが窺えるが、これは当社だけではなくオイルショックの影響をあまり被らなかった出版業界全体にいえることでないかと思われる。

(書影は『建築学便覧』第3版(昭和41年)函)

   

 

『建築設計資料集成 第1集』

日本建築学会 編

昭和35年(1960)発行  A4判 352ページ 定価2,000円

 『建築設計資料集成 第1集』はその初版が出たのは昭和17年(1942)で18年も経ってからの改訂という異例のロングレンジになったが、戦時中から刊行の準備を進めていた『第2集』と『第3集』の出版を優先したために『第1集』の改訂が後回しにとなったと「序文」に記されている。その後,昭和35年(1960)に『第2集』,39年(1964)に『第3集』,40年(1965)に『第4集』、44年(1969)に『第6集』、45年(1970)に『第5集』が出て完結したが、この間10年を要した。しかし、『建築設計資料集成』は実によく売れて『第1集』は累計125,000部に達した。

(書影は『建築設計資料集成1』第6版(昭和51年))

   

 

『防災指針 第1集』

日本化学会 編

昭和37年(1962)発行  A5判 282ページ 定価1,300円

 

  

『キュポラハンドブック』

日本鋳物協会 編

昭和32年(1957)発行  A5判 488ページ 定価1,200円

 この2冊はいずれも当時のニーズに沿って刊行されたが、現在では時代状況が変わって改訂できなくなった。これら以外にも同様の運命を辿った本は少なからずあり、本の寿命を考える一例として紹介したい。

 『防災指針』は「化学工業における危険物品の製造、輸送、貯蔵、使用などの作業を安全に行うために、火災、爆発、中毒、職業病、傷害、公害などを未然に防ぐ具体的方法を記述したもの」(本書扉の記載)で、第Ⅰ集から第Ⅵ集(昭和43年(1968))まで出版し、その後『化学防災指針』と書名を変更して第1巻(昭和54年(1979))から第7巻(昭和55年(1980))を刊行し、最後に各巻を改訂して1巻に収めた『化学防災指針集成』(平成8年(1996))を出してその使命を終えた。その理由は化学物質の取り扱いについての法制度が変わった(平成4年(1992)旧労働省告示)からである。MSDS(化学物質等安全データシート(material safety data sheet,現在は国連の化学品の分類および表示に関する世界調和システム(GHS)に基づきSDSと名称を変更)の提供が義務付けられて、『化学防災指針』収載の化学物質などのSDSをネットで誰でも見ることができるようになった。

(書影は『化学防災指針集成1』(平成8年)函 

 

 キュポラとは銑鉄(粗製の鉄)をコークスを燃やして溶かし鋳物を得るための溶鉱炉で、鋳物生産が盛んな時代にはキュポラの改良、研究も盛んで、本書も昭和43年(1968)に初版を改訂して新版を出版している。

しかし、キュポラは生産調整が困難なことやコークスの硫黄分を除いて生じる脱硫スラグの廃棄物問題などによって徐々に使われなくなり本書もその寿命を終えた。しかし、キュポラが立ち並ぶ鋳物の街・川口市を舞台にした映画『キューポラのある街』(昭和37年(1962),日活)で、鋳物職人の娘を演じた吉永小百合の溌剌とした演技は決して古びることはなく、川口市は鋳物の街であることを盛んにアピールしている。

(書影は『新版 キュポラハンドブック』(昭和43年)函)

  

 

 

『基礎有機化学実験』

畑 一夫,渡辺健一 著

昭和32年(1957)発行  A5判 266ページ 定価350円 

 本書初版は60年以上も前の出版。昭和43年(1968)に新版が出ているが,新版発行からも半世紀以上経っているにもかかわらず、いまだ教科書として毎年一定の需要がある。現在は本体価格2,000円(44刷)。

 本書の特徴はサブタイトルに「その操作と心得」とあるように、個別の実験は扱わず、実験に臨む前の心得から説き起こし、多くの有機化学実験に共通する器具の扱い方や実験操作を横断的に解説した点にある。とくに安全に実験を行うコツを身に付けてもらうことを主眼としている。

 化学文献についての解説など事情が様変わりして古くなってしまった記述もあるが、ろ過、抽出、蒸留などの基本操作の丁寧な解説は学生実験においては古びていないために寿命を保っていると推測される。

 著者の畑先生は、化合物命名法と化学用語についての学識の広さと深さは化学者の中でも群を抜いていて、またきわめて温厚なお人柄であったため、ご自身にまったく関係のない本の命名法と化学用語についての相談であっても快く丁寧に教えてくださった。当社の化学分野の編集者がもっとも信頼し頼りにした先生であった。すでに泉下の人になられたが、当社にとって忘れることのできない大恩人であった。

(書影は『新版 基礎有機化学実験』第3版(平成6年))

 

 

『キッテル固体物理学入門』

Charles Kittel 著  宇野良精・森田 章・津屋 昇・山下次郎 訳

昭和33年(1958)発行  A5判 544ページ 定価1,200円

 本書は1956年に刊行された原書第二版の翻訳。本書初版は60年も前の出版であるが、その後改訂を重ね現在第8版に至っている。

 第二版から上下2冊となり、現行の第8版は上下巻合せて本体価格7,000円と気安く買い求めることのできる価格ではないにもかかわらず、初版以来需要はまったく衰えることなく、毎年重版をしている稀有な教科書。初版の1,200円も当時の公務員の初任給1万円(人事院資料)と比較すると決して安価ではなかった。

 本書が長い寿命を保っている理由として、対象読者層の広さ(学部学生から若手研究者まで)、取り扱う範囲の広さ、詳細な解説などをあげることができるが、訳者序文で紹介されている以下のキッテル教授の言葉にその鍵があると思われる。

「簡単で具体的でよく解ったモデルを用いて論ぜられるような対象を特に選んだ。……しかし現実の固体はわれわれの創ったモデルよりも複雑である」

とキッテル教授は述べている。ニュートンの運動の法則が空気抵抗を考えない簡単なモデルであったため物体の運動の理解が一気に広がったように、本書は複雑な現象をモデル化するその仕方がきわめて優れていたために、半世紀以上経っても少しも古びることがないのではないだろうか。本書は初版以来累計31万部に達している。

(書影は『第8版 キッテル固体物理学入門 ハードカバー版』(平成17年))

 

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≪ バックナンバーと今後の予定 ≫

1月  明治時代

2月  大正から戦前・戦中

3月  戦後直後

4月  戦後復興期

5月  高度成長期Ⅰ(昭和30年代)

6月  高度成長期Ⅱ(昭和40年~オイルショック)

7月  オイルショックとその後の回復期(昭和49年~昭和60年)

8月  バブル期とその後(昭和61年~平成8年)

9月  平成8年~現在

10月「學鐙」の歴史

11月『理科年表』の歴史とトリヴィア

12月 この10年の取組み

 

 

 

丸善 創業150周年記念サイト

http://150th.maruzen.co.jp/

 

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