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【丸善創業150周年】出版物で辿る丸善の歴史 ~戦後復興期編~

今年は丸善の創業から150年を迎えます。

この節目の年に丸善の出版物を全12回の連載で振り返ります。

それぞれの時代を象った、丸善グループの写真や画像をご覧ください。

 

丸善出版 創業150周年記念プロジェクトチーム

 

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戦後復興期 昭和25年~昭和30年(1950年~1955年)


    

米国書籍 戦後初入荷風景(昭和25年2月25日)

米国書が、当社へ戦後初めて入荷した際の写真。写真からは以下の書名が読み取れる。

Ferber, E . - Showboat. 1946, Grosset

Curie, E. - Madame Curie. 1949, Doubleday

London, J. - Sea Wolf. 1948, Grosset

Buck, P.S. - East Wind : West Wind. 1948, World Publishing Co.

Buck, P.S. - Sons. 1948, Grosset

これらの洋書は、どれも50~60冊、“Madame Curie” などは100~150冊も入荷していたようである。

 

    

新着米国書陳列店頭風景(本店・昭和25年頃)

 

  

歳末デコレーション風景(本店・昭和25年12月)

 

  


歳末デコレーション風景(本店・昭和26年12月)

   

 

日本橋本社ビル 俯瞰写真(昭和28年頃)

 

 

日本橋本社ビル 本建築俊成(昭和27年12月)

昭和27年12月8日、日本橋の本社ビル、鉄骨鉄筋コンクリート九層の建築が完成した。

日本橋本店は、大正大震災ののち昭和20年5月、戦災での焼失まで木造であったが、このために疎開させられ、また戦災にも遭った。今後はどんなことがあっても鉄筋でなければならない。終戦以来の政治・経済・社会の混乱のなかで社員に希望を抱かせるためにも、内外に本社の基礎が磐石であることを知ってもらうためにも、立派な本店社屋を建築せねばならない。このような考えから、昭和23年に計画を立てて設計図を決定した。当時、東京ではこの丸善の日本橋本社ビルが、戦後初の鉄筋ビルであった。

 

 

ヴァン・ゴッホ生誕百年記念展覧会(昭和28511日~516日)

ゴッホ研究家として内外に知られた精神病理学者の式揚隆三郎が、昭和27年6月から10月末まで、ヨーロッパ各国を巡回し、ゴッホ関係資料をたずね求めた文献等500点余りを中心に開催。その中には大判の原色版複製画100点、それに資料50点余も含まれていた。本店での展覧会の最終日5月16日には、武者小路実篤、中村研一、式場隆三郎、土岐善麿の四氏を招いて当社で座談会を開いた。

この展覧会は大変に盛会で、参観者は連日超満員であった。最終日は来観者が会場に溢れて、3階の会場入口から延々列をつくって2階、3階に登る階段を埋め、正面入口から外に曲って日本橋の舗道にまで立ちつくしていた。観客は学生、サラリーマン、男女いろいろの階層の人を網羅していた。用意した目録はたちまち売れ切れ大急ぎで増刷したが、それも直ぐ売り切れて、最後は目録がなかったという。

 

 

 

戦後復興期の丸善の出版物


 敗戦で引き起こされた物資不足、ハイパーインフレ、外地からの引揚による人口の急増などで戦後の困窮は収まらず出版業界も大きな影響を被った。しかし、昭和25年に勃発した朝鮮戦争の特需がもたらした好況で、出版業界も戦後の混乱を抜け出した。

 

この時期の小社刊行物の特徴は次のとおり。

 1.繊維分野の新刊書の刊行

 土嚢、軍服、テントなどの繊維製品が朝鮮戦争の特需となったので繊維産業が活況を呈し「ガチャ万景気」といわれた時代の中で繊維関係の新刊書を多数出版した。

 2. 便覧の刊行

 理工系学協会を編集母体とする便覧を続々と刊行した。便覧は大部・多人数執筆で計画から刊行まで長期にわたるため長い間資金が寝てしまう。人的にも資金的にも余裕がなければ実現できないが、この時期になって便覧に代表される大部で本格的な出版を手掛けることができるようになった。

 理工系学協会とは便覧の出版だけでなく学協会自身が発行する雑誌・成書の販売を引き受けるなど強い関係ができ、それが後年の小社の礎となった。

 3. ロングセラーの刊行

 『理科年表』(昭和22年)、『丸善対数表 七桁』(昭和26年)、『いかにして問題をとくか』(昭和29年)、『英文法通論』(昭和28年)は刊行後40年以上にわたり、さらには現在にいたるまで寿命を保つロングセラーとなった。

 

 また、この時期に『水理学(本間仁)』(昭和27年)、『フィーザー有機化学』(昭和29年)、『フローリ高分子化学』(昭和30年)など教科書のロングセラーを出版できたことも付記したい。

 『丸善対数表 七桁』、『いかにして問題をとくか』、『英文法通論』は下記を参照していただきたい。『理科年表』は11月に改めて記事を予定しているが、ここでごく簡単に経緯だけを紹介する。

 『理科年表』は大正14年(1925)に創刊されたものの昭和18年(1943)までは東京天文台(現国立天文台)の発行で小社は発売だけを引き受けていた。昭和19年~21年は戦争のため休刊で、昭和22年から小社が発行元となり現在に至っている。

 

 

 

『丸善対数表 七桁』

丸善編集部 編

昭和26年(1951)発行 B6判・426ページ

昭和18年に『丸善対数表』として初版を発行したが『丸善対数表 七桁』として刊行したのは昭和26年で、その後昭和34年には『丸善五桁対数表』も出している。

 本書は平成7年(1995)まで重版をつづけて累計72.4万部を販売した。価格は280円~1,300円であった。また、『丸善五桁対数表』を昭和34年(1959)に刊行し、昭和63年(1988)まで重版をつづけて累計20万部となった。価格は180円~280円であった。

 『対数表』は古くからあり明治5年に海軍兵学寮が単行本を出している(版元不明)。また,森北出版や理工図書を初め類書も多数出版されていて、関数電卓が普及するまでは必需品であったことが窺える。

 

  


『実用染色法 浸染編』

長津勝治 著 (元I・G独逸染料会社技師)

昭和27年(1952)発行 A5判・544ページ

 本書の推薦文に「自立経済の速やかなる達成が何よりも先決問題であり,それには多少の浮沈あれ共,依然繊維工業製品が我国産業貿易の太宗であるべきことに疑無くその最近の世界情勢を弁えず,徒に古き伝統的技術に固執しその実用上の堅牢性に著しき劣性を示し,近頃輸出市場からの悪評相継ぐに際し,我が染色加工の技術に根本的刷新の必要が叫ばれるに到ったことは当然の帰結で」とあるように、時流に乗った出版というより技術の遅れによる粗悪品の乱造に歯止めをかけたいという危機意識に基づく出版であったと想像される。それ故か本書は第5版まで改訂され、昭和36年(1961)には第5版2刷が出版されている。

  本書で驚くのは、付録として載っている「試薬によって繊維を鑑別する試験法」にこの試験法による繊維の変色を実際の繊維13片を添付して示していることで、当時は手作業がカラー印刷より安価であったことが窺える。

   

 

『金属便覧』

日本金属学会 編

昭和27年(1952)発行 A5判・1,390ページ 1,800円(地方売価1,890円)

 この時期に『鋳物便覧』、『熱管理便覧』、『化学便覧』『電気化学便覧』、『燃料便覧』、『化繊便覧』、『工業薬品安全取扱便覧』、『鉄鋼便覧』など学協会を編集母体とする便覧を矢継ぎ早に刊行した。

 物資不足、資金不足、ハイパーインフレなど戦後の混乱が朝鮮戦争特需によってもたらされた好景気でようやく収まり、学協会、出版社ともに本格的な出版に取り組めるようになった。

 本書は昭和22年に日本金属学会が創立10周年を迎えその記念事業の一つとして企画されたもので、刊行までに5年を要したことになる(組版のスピードが当時とは1桁違うにもかかわらず、いまでも企画から出版まで3~5年かかっている)。

奥付に1,800円(地方売価1,890円)と記されていて、当時は全国統一価格ではなかったことがわかる。

 日本全国で書籍の価格が同一になったのは、昭和34年、書協・取協間で「各取次店の販売価格に定価の1分を織り込む」ことを骨子とする「全国均一運賃込み正味制」が交わされたことによるもので、それに伴って地方売価表示も廃止された。

 なお、小社社内ではかつては便覧を「べんらん」と呼んでいたが、いまでは「べんらん」という呼称は廃れもっぱら「びんらん」になってしまった。各種国語辞典で「びんらん」を引くと「→べんらん」となっていて「べんらん」が主見出し語となっているので、「びんらん」という呼称が幅を利かしているのは残念というほかはない。

   

 

『化学便覧』

日本化学会 編

昭和27年(1952)発行 A5判・1,120ページ 1,100円

 本書は元素と化合物に関する基礎的な数値を掲載したデータブックで現在の『化学便覧 基礎編』の前身。本書は『実用化学便覧』(工業化学会編,化学工業時報社発行,昭和5年)の改訂版で、昭和23年に工業化学会と日本化学会が合併して新たに日本化学会が発足したことを契機に、『実用化学便覧』の内容を一新して改訂することになった。『実用化学便覧』は藤井栄三郎(高峰譲吉の弟で実業家)の個人的な寄付により刊行されたが、昭和13年の改訂版を含めて25,000部販売という実績があった。昭和41年(1966)に刊行した『化学便覧 基礎編』(初版5,000円,改訂2版12,000円)は初版・改訂2版併せて65,000部に達し、『化学便覧 応用編』『実験化学講座』『建築設計資料集成』『理科年表』と並んで小社を代表する出版物となった。

 本書「序」に「欧米には数種の信用の高い数値表がある。然し欧米書は現在普通の日本人には価に当り、なかなか購い難い。吾々には,吾々の懐にふさわしく要領を得た数表が欲しい。即ち先ず戦後わが国の化学関係読者層の平均の購買力を推定してA51,000頁の大きさを目標にするのが最も適当と判定せられ」とあり、当時の編集委員会の議論が窺われて興味深い。なお、当時の1,100円は公務員の初任給(7,650円,人事院資料)から類推して現在の30,000円ぐらいと推定される。

  

 

『英文法通論』

オレステ・ヴァカーリ 著

昭和28年(1953)発行 B6判・626ページ 400円

 本書の著者ヴァカーリはイタリア人で「はしがき」によると「北米及び南米において、相当な年月の間それ等の国語の教授に従事して来た」とあり、さらに日本における英語教育がリーダー中心であることを強く批判して、文法を中心に学ぶのが最良として本書出版の意義を説いている。

 ヴァカーリは本書の他にも多数の著作があり、来日以来「英文法通論発行所」という自前の出版社から自著を出している。本書(昭和6年(1931))、『英文法詳論』(昭和8年)、『英和会話小辞典』(昭和14年)、『英文法通論 解答書』(昭和25年)も「英文法通論発行所」から出し小社はその販売を請け負っていた。

昭和28年に著者がイタリアに帰国した際に小社が版元となった。

 ヴァカーリの著作のいずれにも訳者は記されていない。イタリア人が英語と日本語を著述し、しかも何冊も著書があることはにわかに信じられないが、ヴァカーリの妻エンコ・エリサ・ヴァカーリが日本人であることから彼女がサポートしたに違いないと思われる。なお、『英和会話小辞典』、『ヴァカーリスタンダード和英辞典』(上智学院,1990)は夫妻の共著となっている。

 本書はロングセラーとなり平成8年(1996)までに116,000部を販売した。価格は400~2,800円であった。 

 

 

『いかにして問題をとくか』

G. ポリア 著,柿内賢信 訳

昭和29年(1954)発行 B6判・240ページ 250円

 原書は1945年にプリンストン大学出版局から刊行された。原著者はスタンフォード大学の数学の教授。訳者が戦後原書の出版を知ったものの手に入れることができず、昭和27年にようやく入手し一晩で読破して翻訳を決意したと「訳者のことば」に記されていて、いかに原書を待ち焦がれていたかが分かる。

 本書は初版刊行後65年経った現在も売れつづけている稀有なロングセラーで、第11版54刷、累計205,000部に達している。(2018年11月現在)今の版は264ページ、1,500円(本体価格)。

 

 

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≪ バックナンバーと今後の予定 ≫

1月  明治時代

2月  大正から戦前・戦中

3月  戦後直後

4月  戦後復興期

5月  高度成長期Ⅰ(昭和30年代)

6月  高度成長期Ⅱ(昭和40年~オイルショック)

7月  オイルショックとその後の回復期(昭和48年~昭和60年)

8月  バブル期とその後(昭和61年~平成8年)

9月  平成8年~現在

10月「學鐙」の歴史

11月『理科年表』の歴史とトリヴィア

12月 新たな取り組みの時代

 

 

 

丸善 創業150周年記念サイト

http://150th.maruzen.co.jp/

 

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