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學鐙2022年春号掲載 書評『塵劫記を読みとく百科』(西田 知己)

 


『塵劫記を読みとく百科 江戸時代の大ベストセラー和算書の世界 』

佐藤 健一 著

A5・320頁 定価6,380円(税込) 丸善出版 発行

 

 


 

 長年にわたって和算史の研究を牽引してきた佐藤健一氏の『塵劫記を読みとく百科』が刊行された。タイトルにある吉田光由の『塵劫記』はもちろんのこと、この一大ベストセラーを基準にして以前と以後を見渡しながら幅広くカバーされている。過去の『塵劫記』研究の集大成でもあり、まさに「百科」の名に値する。初めて和算に接する方々にとっては格好の手引書になり、和算研究に取り組んできた研究者にとっても得るものが多い。
 
 入門編としての配慮が随所にあり、表紙にあしらわれている数々の小粋な絵は、実際に『塵劫記』諸版に掲載されていたものから採られている。本文にも大量に掲載され、絵を「読みとく」だけでも楽しめる。一連の図版に関しては、光由が手がけたオリジナルだけでなく、後世まで刊行され続けた新編の絵も採録されている。すでに江戸時代の段階で、初等教
育におけるビジュアル効果が期待されていた。
 
 
全五部からなる本書の第Ⅰ部「塵劫記前史」は、飛鳥・奈良時代にまでさかのぼって九九や算木から書き起こされる。そこから各時代の数学をへて、『塵劫記』の成立直前に刊行された著者未詳の『算用記』や毛利重能の『割算書』に続く。後半では吉田家と角倉家のつながりや、吉田光由自身についても詳述されている。肥後の細川家に招かれていた時代の話や晩年の交友関係にも触れるなど、人物像が浮き彫りにされている。
 
 
第Ⅱ部の「日用数学としての塵劫記」は、単位や大きい数などから始まる。ソロバンで割り算をするときの八算や見一(割り算版の九九)も、逐一紹介されている。このあとには両替や利息の計算、検地になぞらえた面積の例題などが続く。寛永一一年(1643)版に初登場した「子に財産を譲る」問題については、同年に光由が父親を看取ったことが書かれている。光由の内なる心から例題が設定された可能性が指摘されていて、興味深い。
 
 
第Ⅲ部の「遊ぶ塵劫記」では、今でも小中学校や高校などの算数や数学の補助教材として活用されている遊戯問題が取り上げられている。具体的には絹盗人算や薬師算、油分け算、入子算、百五減算などがある。光由がライバルの研究家や海賊版などを意識し、改訂版を出版し続ける中で追加していった新項目でもあった。後続の和算書には元祖と異なる解き方も見受けられ、そういう継承発展の側面も網羅されている。
 
 
第Ⅳ部の「遺題による発展」では、寛永一八年(1641)版の『塵劫記』に掲載された遺題を発端とする後世の遺題継承が系統的に述べられている。和算家同士の切磋琢磨が本格化していく過程で、独自の考えを打ち立てていった関孝和も当初は『塵劫記』から着手していた。
 
 
第Ⅴ部は「塵劫記と「和算」」と題され、第Ⅳ部までの区分には収まり切れなかったテーマが補われている。そのひとつが「戯作塵劫記」で、いくつかのパロディ版が紹介されている。それだけ光由のオリジナルが、世の常識や素養の一部になっていたことを物語っている。すでに広く認知されているからこそ、そのパロディが成り立つのだった。
 
 
寛永一八年版の遺題に掲げられていた円の分割の問題については、のちに「円理」として発展し、現在の積分に近い考え方が生み出された。その前段階として活用された天元術や、関孝和によって考案された点竄術なども、個別にテーマを立てて解説されている。和算の開花の起点になった『塵劫記』の位置が、改めて実感できる。
 
 
最後に索引があり、これが大いに役に立つ。「百科」事典的な構成になっている本書では、ひとつのテーマやひとりの人物に関する情報が複数の章や項目にまたがって出てくることがある。分散して書かれている特定のテーマについて横断的に調べたいとき、索引があれば重宝する。こういうひと手間が、本書の価値を一段と高めている。

 和算あるいは数学史とは、ジャンル的には歴史でもあり数学でもある。いわば文系と理系の狭間に位置し、歴史が好きでも数学が苦手だと手を出しにくい。かといって数学的な内容を削減しすぎると、理系の読者の興味が半減する。その点で本書は、言葉による解説と数式による解説の割合がちょうどよい。数式の変換を文章で説明した箇所も、文系の読者には助かる。文系型人間と理系型人間の乖離が懸念されて久しい昨今、両者の橋渡しになる書籍の典型といったら話を広げ過ぎだろうか。そこは論より証拠、ぜひ一読をお薦めしたい。

 

西田 知己(にしだ・ともみ)

江戸文化研究家
 

 


 

 

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