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『ダチョウのパラドックス 災害リスクの心理学』まえがきより

 

『ダチョウのパラドックス 災害リスクの心理学』

中谷内 一也 著 本体価格2,800円 四六判 / 並製 200ページ

※本書は縦書きです。まえがき部分を公開しております。

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はじめに


 今から百年以上も前の1900年9月8日夜明け、テキサス州ガルベストン*コラム1の住民たちは間もなく大災害に襲われることになるとは思ってもいなかった。どんどん濃くなっていく雲と高さを増していく波が嵐の接近を物語っていたが、それを気にかける人はほとんどいなかった。実際、地方気象台は何の緊急警報も出さず、避難の呼びかけも一切していなかったのだ。しかし、午後に入るとこれが並大抵の嵐ではないことがはっきりしてきた。風速45メートルを超える暴風が街に迫り、通りにあるあらゆるものをなぎ倒していった。そのときになって多くの住民が逃げようとしたがすでに手遅れだった。翌日までに8000人の人びとが亡くなり、米国史上、自然災害による最悪の人的被害をもたらした。

 

 ひといきに時代をくだって2008年、ハリケーン・アイクがテキサス州の同じ海岸地域に襲いかかった。このとき、台風を待ち構えていたのは百年前とは違って十分な情報を与えられた人びとだった。ハリケーン・アイクは衛星や偵察機、地上レーダーによって1週間以上観測されており、ニュースや広報は海岸地域から離れるよう、うるさいくらいに警報を流し続けていた。ガルベストン市当局の準備も万全だった。1900年の災害の後に築かれた5メートル超の防潮堤が町を護るためにそびえ立ち、危険地域の住民は政府保証の洪水保険に加入することができた。1900年当時とは違って、テキサスの住民には恐れる理由などほとんどないはずだった。気象学、工学、経済学の百年間の発展が彼らに味方していて、アイクなど通り過ぎれば忘れてしまう、ただの夏の嵐となるべきだったのだ。

 

 ところが、本書で取り上げるいくつかの理由によってそうはならなかった。警報が何度も発せられたが、海岸のすぐ近くに住む人びとはこれを無視した。「命にかかわることになります」と警告されてさえ無視を続けた 。ガルベストンの老朽化した防潮堤は複数個所で亀裂が入り、市内の家や会社の被災率は80%に上った。そのすぐ北に位置する、防潮堤の必要性など考えもしなかったボリバー半島のリゾート地区はさらに被害がひどく、ほぼ壊滅状態となった。また、浸水被害をうけた数千の持家のうち、十分な保険に加入していた人はわずか39%に過ぎなかった 。結局、ハリケーン・アイクは土地家屋で総計1兆5000億円以上の被害をもたらし、100人以上の命を奪っていった。それらのほとんどは防げたはずの被害なのである。

 

 

*コラム1

 ガルベストンの台風被害についてはこの後もしばしば出てきますので、地図をよくご覧になって地形を理解しておいてください。すぐ北のボリバー半島も同様に、いかにも海に取り残されたような土地で、海抜も低く、台風の大波の被害をうけやすいことがうかがえます。日本で○○半島というと房総半島や紀伊半島を連想しますが、同じ半島といっても全く別ものであることがおわかりいただけると思います。

 

 

なぜ災害に備えきれないのか?



 ハリケーン・アイクの被害にみられるような、身の安全を守るためのテクノロジーと身の安全を守るための行動の食い違いは、ガルベストンや台風に限ったことではない。類似した事例は今日でも数多く報告されている。大規模な自然災害に対する我々の予見力や防衛力は過去一世紀を通じて格段に向上した。それにもかかわらず、これら災害による損害を減らすことはほとんどできないでいる。

 

 2005年以降に起こった最も物的被害額の大きな10の自然災害のうち五つを取り上げると、科学の発達によって被害や死傷者が減少するどころか、むしろ21世紀の初頭にかけて経済的コストと人びとの生活への影響が世界規模で幾何級数的に拡大していることがわかる。科学や技術の発展によって平均的な死者数は減ってきているものの、恐るべき大惨事は依然として続いている。2004年のインド洋地震(スマトラ島沖地震)の津波によって推定23万人の人命が失われ、2008年の中国四川省地震では8万7000人、2010年にハイチで起きた地震では16万人[4]、2015年のネパール地震では8000人が亡くなっている。米国でも2005年のハリケーン・カトリーナで1800人の死者を出し、これは米国史上3番目に犠牲者の多い台風となった。

 

 本書の目的は、このようにテクノロジーの発展が自分を守ることに結びつかないのはなぜかを解き明かし、その解決策を提案することにある。PART1では、めったに起こらないがいったん起きると甚大な被害をもたらす出来事(低確率・高被害災害)に対して、なぜ個人や社会、組織はやすやすとそれらを見過ごしてしまうのかを六つの理由から探ってみる。低頻度の大災害に備えるための適切な意思決定を妨げてしまう心理的バイアスを取り上げ、各章で一つずつ説明しよう。これらの章では大規模災害がもたらした悲惨な出来事をお伝えし、我々の心の働きにある悲劇的ともいえる欠陥をわかりやすく解説する。この本を書いたのはそういった物語を伝えたいと思ったからであり、また、そのような悲惨な出来事を防ぐ準備計画のための新しいアプローチ法を提案したいと思ったからである。

 

 PART2では、PART1で解説した心理的バイアスについての知識を駆使し、人びとが災害の危険性に直面したときに起こしがちな失敗を解説する。そのうえで失敗を避けるための方法を論じていく。個人や組織、さらには政策決定者が心理的バイアスによってリスクへの備えをおろそかにすることを理解して対策を講じ、人命と社会資源を守るための有効な計画立案をサポートすることが本書の狙いである。本書で提案する新しいアプローチ、「行動リスク監査」はこれまで安全政策をつくる際に使われてきた伝統的な考え方を覆そうとするものである。従来のように経済的、技術的な解決策を提案し、あとはそれが人びとに受け入れられることを願うといった進め方ではなく、「行動リスク監査」では、まず、人びとの心理的バイアスに照らしてなぜ解決策がとられないのかを突きとめる。そのうえで、我々の自然な心の働きに対抗するのではなく、むしろ心の働きに沿って効果を発揮するような方針を提案する。したがって、この新しいアプローチの基盤となるのは自然科学や工学ではなく、行動経済学や心理学などの社会科学となる。

 

 

なぜダチョウのパラドックスなのか?



 
原書のタイトル「The Ostrich Paradox(ダチョウのパラドックス)」は本書が伝えたいことの暗喩になっている。ダチョウは危険に直面すると頭を砂に突っ込んでやりすごそうとする、どうしようもないキャラクターとして描かれることが多い。しかし、実は、ダチョウは飛べないという欠点を克服して猛スピードで逃げ去ることができるようになった、きわめて俊敏な逃げの達人なのである。本書のテーマは、ダチョウが飛べないために身を守る方法が限られているのと同じように、我々も意思決定をするときにはDNAに組み込まれた心理的なバイアスから逃れられず、あたかも地面から飛びたてないのと似ていることをまずは認めようというものである。それでも、我々には環境、インセンティブ(報酬金、見返りなど)、さらにコミュニケーション方法を組み合わせ、心理的バイアスを乗り越えて災害に対処するだけの力があるはずだ。災害に対する備えをより良いものにするために、我々はダチョウを目指して多くを学ばねばならない。

 

『ダチョウのパラドックス 災害リスクの心理学』まえがきより

続きは本書をご覧ください。

 

 

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