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『続・人類と感染症の歴史』の第9章「SARSとMERS」を公開します。

2019年末より中国湖北省武漢市でコロナウイルスによる新型肺炎の感染が確認されました。2020年には日本国内でも感染が確認され、現在もその影響の拡大が報道されています。それを受けて小社では同じコロナウイルスが原因とされる感染症である、SARSとMERSに関する知見をより多くの方に提供することが、恐れ過ぎず、冷静な対応ができる一助になると考え、著者である加藤茂孝先生のご厚意により、2018年に刊行した『続・人類と感染症の歴史-新たな恐怖に備える』より「第9章 SARSとMERS-コロナウイルスによる重症呼吸器疾患」を公開いたします。

権利の関係で一部の画像を非公開にしております。予告なく公開を終了することがありますのでご了承ください。また、引用をされる場合は必ず出典を明記していただくようにお願いいたします。

※掲載データは書籍刊行当時のものです。

 

 

『続・人類と感染症の歴史』

加藤 茂孝 著

 

著者略歴

1942年生まれ、三重県出身。東京大学理学部卒業、理学博士。国立感染症研究所室長、米国疾病対策センター(CDC)客員研究員、理化学研究所チームリーダーを歴任し、現在は株式会社保健科学研究所学術顧問。

専門はウイルス学、特に風疹ウイルス、麻疹・風疹ワクチンである。妊娠中の胎児の風疹感染を風疹ウイルス遺伝子で検査する方法を開発。著書に『人類と感染症の歴史―未知なる恐怖を超えて』(2013年)、『続・人類と感染症の歴史-新たな恐怖に備える』(2018年)がある。

 

第9章「SARSとMERS」PDF版はこちら

 

 

新型コロナウイルス(COVID-19)についての加藤茂孝先生によるコラム

【コラム】新型コロナウイルスはどう落ち着くのか?(2020/2/13公開)

 

加藤先生の最新コラムはこちら

【コラム】恐怖心を減らすための対策の重要性-新型コロナウイルスのもたらした歴史的変化

(2020/5/21公開)

 

 

 


第9章「SARSとMERS」

─コロナウイルスによる重症呼吸器疾患 


 

1.2003年の米国


 私は、2002年10月1日から2005年9月30日まで3年間、米国のCDC(Centers for Disease Control and Prevention、疾病対策センター)に客員研究員として滞在していた。2003年2~3月、米国では二つの大きな出来事で騒然としていた。

 一つ目は、2003年3月20日に始まったイラク戦争であった。ブッシュ大統領が英国、オーストラリア、ポーランドなどと有志連合を形成して、イラク武装解除問題の進展義務違反をとがめて「イラクの自由作戦」の名のもとに始めた。しかし、後に明らかになったが大量破壊兵器(核兵器)もバイオテロの病原体(天然痘)もなく、2001年9月11日の同時多発テロの指示者も見つからなかった。前もって兵士60万人には、安全のために天然痘予防のためにワクチン接種(種痘)を行った。大統領がワシントンでテレビを通じて兵士への種痘実施を発表した2002年12月13日には、CDCでそれを同時中継し、全所集会があった(前作第2章参照)。

 二つ目は、重症化する急性の非定型肺炎であった。その肺炎は、後にSARS(severe acute respiratory syndrome、重症急性呼吸器症候群)と呼ばれ、世界に知られ、皆に不安を与えた。その始まりは、2002年11月で、中国広東省で、非定型肺炎の報告があったが、原因不明であった。その当時にはクラミジア肺炎説がでたが、少し後の2003年1月にはマイコプラズマ肺炎説も唱えられるようになった。2月11日に広東省における記者会見が一つのきっかけになり、非定型肺炎患者の存在がWHO(World Health Organization、世界保健機関)などに知られ始めた。続いて2003年2月28日に、ベトナムのハノイのフレンチ病院で非定型肺炎、ことによると鳥インフルエンザかもしれない患者の報告がWHOのハノイ事務所に入った。この後に、世界がSARSを知ることになる。

 

 

2.ウルバニ医師によるSARS の発見と死


 フレンチ病院で、その患者を診察したWHO医官のウルバニCarlo Urbani(1956~2003年イタリア、図9.1)が、「この非定型肺炎は、鳥インフルエンザともクラミジア肺炎とも異なる」とWHOの西太平洋地域事務局(本部:マニラ)に報告した。こうして非定型肺炎が国境を越えて広がっている可能性が強くなった。

 

図9.1カルロ・ウルバニ

(出典国境なき医師団)

 

 フレンチ病院では医療関係者の間にも感染者が出た。事の重大性を認識したWHOは3月9日、ベトナム政府高官の参加を要請してハノイで緊急会議を開き、フレンチ病院の閉鎖と、隣のバクマイ病院の隔離病棟への患者移送を決めた。

 その時期、ウルバニは、若い頃国境なき医師団に所属していたこともあり、ハノイのWHO現地事務所のオフィスに居ることなく積極的に患者の診断・治療に参加していた。タイのバンコクで行われる学会参加のために、3月11日バンコク行きの航空機に搭乗し、その機内で自らが感染していることに気がついた。空港に迎えに来ていた米国CDCの職員に対して近寄らないように伝え、ベンチに座り、救急車の到着を待ち、すぐさまバンコクの病院に入院した。翌日の3月12日、WHOは重症非定型肺炎が広がっていることに対して世界的警報(グローバルアラート)を出した。ウルバニは、ハノイにいた彼の家族に対して、イタリアへの帰国を指示した。そして、治療の甲斐もなく3月29日死亡した。46歳であった。彼の死はSARSとの戦いの初期に起きた尊い犠牲であった。4月16日にWHOはこの非定型肺炎をSARSと命名した。

 既知の他の疾患とは異なる新しい疾患であるという彼の指摘が、その後にWHOによるSARS対応が素早く行われることに大きく貢献した。

 そして、彼の検体をいち早く手に入れたCDCは、ウイルスの分離に成功する。

 

 

3.CDCの研究チーム


 SARSと名付けられたこの重症呼吸器疾患の原因ウイルスは、いくつかの研究機関で分離され、電子顕微鏡による形態からコロナウイルスであることがわかった(図9.2)。コロナウイルスはそれまでもヒトから複数種が分離されていたが、既知のウイルス種では鼻風邪や上気道炎などの軽い症状しか起こさず、重症急性の呼吸器症状の原因にはならない。したがって、SARSの原因ウイルスは新種のコロナウイルスではないかと推測され、分離されたウイルスの遺伝子解析がいくつかの研究室で並行して競争のように始まった。

 

 

図9.2 SARSコロナウイルスの電子顕微鏡写真

(出典 Centers for Disease Control and Prevention:“SARS-CoV Images”https://www.cdc.gov/sars/lab/ images.html)

 

 CDCが出した遺伝子情報はその中では時間的には1番ではなかったが、ウイルス遺伝子の全塩基配列を決めたという意味で最初であった。CDCで分離したウイルス株はカルロ・ウルバニ株と名付けられている。

 CDCが最初に全塩基配列を決定できたのには、緊急の特別チームを形成できたからであった。最初このウイルスは麻疹の仲間であるヒト・メタニューモウイルス(human metapneumovirus:hMPV)かもしれないと考えられていたので、当時私の所属していた麻疹や風疹を研究している部に話がきた。すぐにコロナウイルスであることがわかったが、研究チームはそのまま部内で形成された。部内の博士号を持つ研究者を募ってチームを形成し、ウイルスの遺伝子をいくつかの部分に分けて担当し、2~3週間で全遺伝子解析を完了させた。それを統括していたのが3人の室長であった。休日に室長が議論して論文を作成し、すぐさまScienceに投稿した。したがって、この論文は、共同著者が35人と極めて多い*1。筆頭著者は麻疹ウイルス室長のロタPaul Rotaであった。早くも2003年5月1日には電子出版されている。

 日々新しいデータが出てくるという、部内の緊張と興奮を私も少し共有することができた。さすがCDCだと思い、風疹室長であった共著者の一人Joseph Icenogleに尋ねた。「CDCではいつもこのようなプロジェクトチームができるのか?」「今回が初めてで、これは画期的なことだった。CDCのミッションを研究者各人が自分自身のミッションとしてくれたからできた」。疫学で名を馳せていたCDCが研究でも名を挙げた瞬間であった。騒ぎが落ち着いてから、研究こそは我々と自負していたNIH(National Institutes of Health、米国立衛生研究所)からの嫉妬がすごかったと教えてくれた。これは研究競争はどこにでもあるのだということを知らされたエピソードでもあった。いずれにしても、検体を手に入れたCDCのネットワークの凄さを知らしめた出来事であった。この頃には、米国内でもSARSの恐怖が広まっていた。

 このときウイルス分離に使われた培養細胞は、アフリカミドリサルの腎臓細胞から作られたVero細胞であり、1962年、日本の安村美博が開発して世界的に広く使われていた細胞であった。遺伝子解析技術も、すでに世界に広く普及していて試薬と装置さえあれば、誰でもできる技術になっていた。差を分けたのは、まず検体の入手の速さ、ついでプロジェクトチームの形成だった。

 CDCの日々進展する研究活動の興奮した雰囲気の中にいた私も、中国やベトナムに米国よりもはるかに近い日本が、SARS発生当時まったく何もできなかったことに大変衝撃を受けて、日本の朝日新聞に「感染症対策 アジアの研究網つくりを」と投稿した(2004年2月2日掲載)。このSARSの突然の出現と検体入手ができなくて研究開始が出遅れたことは、当然ながら日本の感染症研究者や公衆衛生に関する研究行政機関に大きな衝撃を与え、感染症研究国際ネットワーク形成のきっかけとなった。2004年文部科学省が感染症研究国際ネットワーク推進プログラム(J-GRID:Japan Initiative for Global Research Network on Infectious Diseases)を立ち上げ、その支援組織として「感染症研究ネットワーク支援センター」(5年後に新興・再興感染症研究ネットワーク推進センターと名称変更)を理化学研究所に設置した。J-GRIDは2015年に再編されて省庁の壁を越えた内閣府所属の国立研究開発法人日本医療研究開発機構(Japan Agency for Medical Research and Development:AMED)に所属し、その一つの柱になっている。CDCから帰国した私も、2006年4月~2015年3月の間、理化学研究所のセンターに所属した。

 

*1 Rota PA, et al.: Characterization of a novel coronavirus associated with severe acute respiratory syndrome. Science. 300:1394-1399, 2003

 

 

4.SARS の症状


 病名が示す通り、重症で急性の呼吸器症状である。SARS の主な症状と MERSとの比較を示す(表9.1)。

 

 

表9.1 SARSとMERSの主な症状

 

 SARSの最初の臨床症状は38℃以上の発熱とされているが、これだけでは感冒を含めて多くの疾患が引っかかる。この診断基準がアウトブレイクの初期には、臨床医と公衆衛生当局を悩ませた点であった。疑わしい時には胸部X線写真を撮るが、像が白く不鮮明(すりガラス状)になるのが特徴である。現在では、他疾患との鑑別のために抗体検査やウイルス遺伝子診断などの明確な方法が使える。

 2003年のSARS流行時、当時アトランタにあった唯一の日本のTV局(テレビ朝日)からCDCの私にいきなり電話が入り、夕方にもインタビューに伺いたいと言ってきた。CDCに所属しているウイルス学者で、かつ日本語が話せるという条件だったのが、私に話が来た理由であった。CDCを中心とした米国のSARS対応について話した。このことからも、当時の日本におけるSARSへの関心(あるいは、不安)の高さがうかがわれた。

 初期の頃のSARSの症例報告は、国の事情によって異なり、疑い例、可能性例の報告であり、確定例は少ない。国や施設にもよるが、すべての疑い例において、ただちにX線撮影や抗体検査・遺伝子検査ができるとは限らなかった。

 日本において2003年5月8~13日に観光目的で関西・四国地方を旅行した台湾の医師が、帰国後SARSの疑いで隔離された。その旅行訪問先の接触者の感染の可能性を心配して、日本国内も一時騒然となった。接触の可能性があったのは、604名であったが、疑い症状があったのは2人で、その2人についても抗体・ウイルス遺伝子検査が行われたが、すべて陰性であった。

 日本でも何度も、疑い例、可能性例が出たけれども、その都度行われた確定診断はすべて陰性であり、結果的には日本のSARS患者はゼロであった(図9.3)。これはたまたま出なかったという、単に非常に幸いな出来事であったというべきであろう。

 

図9.3SARSの国別報告数(2002年11月1日-2003年7月31日)

(WHO:Summary of probable SARS cases with onset of illness from 1 November 2002 to 31 July 2003を改訂)

 

 SARSは病原体がウイルスなので、抗菌薬(抗生物質)は効かない。また、SARS 特有の治療法はないので、肺炎を治療し、全身状態の改善などの対症療法になる。

 

 

5.SARSの病原体


 SARSの病原体であるコロナウイルス(Coronavirus)の名称の由来は、電子顕微鏡で撮影されたその形が、太陽のコロナ(corona)のように見えるからである(図9.2)。すでにヒトや動物で多くのウイルス種が発見されていた。ヒトから発見されていたものは、軽症の風邪症状を起こすだけであり、重症急性の肺炎症状を引き起こしたのはSARSが初めてであった。

 飛沫感染が、主な感染ルートである。また少数例と考えられるが、便からの感染もあり得る。コロナウイルスは、ウイルス粒子内部の遺伝子が外側の脂質膜(エンベロープ)に被われており、この膜が洗剤やアルコールに弱く、容易に感染性を失う。しかし、ウイルスが含まれる排泄物、嘔吐物が乾燥しても感染性は失われない。ウイルス遺伝子は+鎖(そのままメッセンジャーRNAとして働く)の一本鎖RNAで、RNAウイルス中では最大の約30kb(3万塩基)である。

 香港におけるホテル宿泊客への感染では、同じ9階で患者が多発した(図9.4)。これは後に出されたWHO-香港政府の報告書では、患者の泊まっていた部屋の前のカーペットから大量のウイルスRNAが見つかっており、ここからエアロゾル化したウイルスが9階のフロアに充満していたのではないかという仮説が提唱されている。

 

 

図9.4 香港のホテルMにおけるSARSの拡大

(出典    Centers for Disease Control and Prevention:“Update: Outbreak of Severe Acute Respiratory Syndrome--- Worldwide, 2003” https://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/mm5212a1.htm)

 

 SARSコロナウイルスが細胞に入る際に使う受容体(レセプター)も、早くも2003年にはACE-2(angiotensin-converting enzyme 2)と決定された。

 

 

6.疑われたハクビシンとコウモリ


 感染経路をめぐっては、流行中から疫学的研究が精力的に行われた。最初の患者発生が中国広東省仏山であったことから、広州のライブマーケット(生きている動物や鳥の市場)が集中的に調べられた。マーケットの従事者からウイルス遺伝子や、ウイルス抗体が見つかり、顕性、不顕性の感染があったことが想定され、さらにそこで扱っている動物についても調べられた。その結果ハクビシンが浮上し、ハクビシン由来説が有力になった。ハクビシン(白鼻芯)は中華料理の食材の一つであり、顔の中央に1本縦に白い筋が通っていることから付いた名で、ジャコウネコ科に属する。日本でも帰化動物として現在では広く分布している。

 コウモリが持っていたウイルスが、ハクビシンを飼育している施設で流行し、その感染ハクビシンが市場に運ばれたのではないかという説がある。SARSコロナウイルスに似たウイルス遺伝子がキクガシラコウモリRhinolophus ferrumequinumから検出されたことから、キクガシラコウモリあるいは、近縁のコウモリがSARSウイルスの自然宿主ではないかと、思われている。おそらくコウモリコロナウイルスの間の遺伝子組み換えでSARSコロナウイルスが誕生したのではないかと考えられている。

 SARSに関して、誰もが不思議に思うことは、この2002~2003年の広州起源の流行のみで、その後は1度も発生していないこと、また、過去に遡っても、それらしい疾病の発生報告が無いことである。この件については、CDCのロタとも話したが、過去において、おそらく風土病としてごくまれには発生しており、規模が小さく終了して、例えば、重症の風邪として処理されていた可能性があるのではないかという推測になった。

 

 

7.香港のホテルで起こったことと北京の緊張


 2003年のSARSの広がりには、中国系共同体の社会的・文化的背景が大きく関係している。それは、一族の結束が強いという背景である。その象徴として大人数が集まる結婚式がある。2002年11月16日の第1例から感染した広州の医師が結婚式出席のために香港のホテルの9階に滞在して、そこから急速に感染が拡大した。体調が悪かった医師は、おそらく結婚式にも出席できず、直後に死亡した。華僑などの中国系社会の世界的広がりを反映して、中国、シンガポール、ベトナム、カナダのトロントなどへも、ホテル同宿者を通じて運ばれる結果になった(図9.4)。約8,000名の患者の大半は中国系であった。

 北京では、日本の支援で建てられた日中友好病院が、SARSの専門病院になった。ここでの問題は、(1)明確な診断基準がないこと。38℃以上の発熱というだけで、どのように患者を選別するか? 施設には全員をX線撮影する能力がない。(2)院内感染防止対策の不備。隔離領域(汚染区)を確定して対応したが、特に隔離や感染防御機材が不十分であった初期には多くの医療従事者への感染と死亡が起きた。(3)感染防御機材の不足。初期には、通常の外科用マスクさえ十分ではなかった。後に整備されたN95マスクの苦痛(直径0.3 μmの微粒子を95%さえぎる能力があるが、空気の通りも悪くするので、呼吸そのものが大変苦しい)、全身を何重にも防御する衣類や手袋などで、動作が緩慢になり、かつ緻密な手作業がしにくい。それに加えて、防御服内での体温上昇や発汗で、医療従事者の肉体的・精神的疲弊が頂点に達した。その消耗は、ヒマラヤなどの高山への重装備の登山のようであったと回想されている*2。ある病院では、感染の恐怖と過重労働で、医療従事者が脱走し、当局が病院の外側から脱走防止をする事態さえ起きた。

 このような、過酷な条件の中で、北京の日中友好病院を中心とする医師、看護師は使命感を失うことなくよく耐えて、アウトブレイクを終わらせ事態を乗り切った。

 

*2 麻生幾:『北京SARS医療チーム「生と死」の100日』新潮社、2004

 

 

8.WHOの緊急ではない渡航の自粛勧告


 中国、特に北京での患者急増の事態の中で、WHOは、画期的な手を打った。2003年4月2日、流行地である香港と広東省への緊急ではない渡航の自粛勧告であった*3。ジュネーブにある本部から出されたが、実質的な担当は、WHO西太平洋地域事務局であった。以後、次第に他の流行地である北京、山西省を加え、さらに、5月8日には、台北、天津、内モンゴル自治区まで、自粛勧告の地域を広げていった。この勧告が功を奏し、各国の防疫の努力と相まって、SARSは急速に収束に向かった。当時の西太平洋地域事務局は、日本から選ばれた尾身茂(現地域医療機能推進機構(JCHO)理事長)が事務局長であり、押谷仁(現東北大学教授)など多くの日本人が献身的に協力した。

 社会的・心理的・経済的には、世界に多大の影響を与えたけれども、未知のウイルス病が、患者数8,098人、死亡774人で押さえられたのは、公衆衛生対策としてたいへんな成功であった。また医学的にも、病気の存在が明らかになってから数か月という極めて短時間に、ウイルス分離、ウイルスの全遺伝子情報の解明、感染ルート推定などの疫学的成功を収めて、WHOを始めとする世界的な研究・対策ネットワークの勝利であり、21世紀初頭の医学面での画期的な事件であった。

 このSARS事件では、組織としてはWHOと米国CDCがその存在意義を改めて世界に認められ、組織の評価が格段に上がった。

 その結果、当時のCDC長官(2002~2009年)のガーバーディング J. L. Gerberding は時の人として、米国内はもちろん、世界的にも広く顔が知られることになった。彼女は、2007 年のフォーブス誌の「世界の力ある女性100人」の1人として選ばれ、また、組織としてのCDCは、2004 年の調査では、連邦政府の機関の中での「よくやっている」という評価が66%と他の機関を圧倒して第 1 位であった。感染症の研究を総合的に行う学問として疫学があるが、米国の科学分野における職業として、疫学者・医学研究者(Epidemiologist/Medical scientist)のランクが高くなり、第2位(2016年)にまで上がった。これらの高い評価にはSARSなどでのCDCの活躍が大きく貢献している。

 

*3 WHO issues warning on killer virus. http://st.japantimes.co.jp/english_news/ news/2003/no20030411/no20030411main.htm?print=noframe

 

 

9.SARSの教訓


 2002 年中国南部で肺炎が出ており、鳥インフルエンザかもしれないなどの疑いがあることから、WHO は中国での現地調査を提案して中国行きを計画していたが、中国から入国許可が出なかった。

 SARSが注目され始めた2003年3月26日になって初めて、中国国務院衛生部は、2002年11月16日から2003年2月9日にかけて、広東省で合計792例の、「非定型肺炎」の症例(うち31例の死亡)をWHOに報告した。また、4月20日には、今まで公表していなかった399例のSARS発症者の数をWHOに報告した。しかし、すでにこの時点で中国の患者は約2,000名に達していた。流行や社会的不安の予想外の大きさから、北京市長と国務院衛生部長(日本の厚生労働大臣に相当)が更迭された。

 もし、非定型肺炎の報告がもっと迅速に出されたり、WHOの調査がすぐに認められていれば、中国国内やWHOなどの対応もより早く実施されていたのではないかと、感染が拡大した後に指摘されている。

 当初から中国が恐れていた経済活動に対するマイナスの影響は、終息後の推計では、予想以上に大きな値になった(図9.5)。アジア開発銀行の推計によれば、世界では280億ドル(3兆4,000億円)の経済的損失とされた。

 


図9.5 SARSが各国・地域にもたらした経済的損失の推計

(出典Emma Xiaoqin Fan:“SARS: Economic impacts and implications”ERD policy Brief Series, No.15, 2003)

 

 2003年のこのSARSとイラク戦争の2大要因による航空客の減少により、米国の主要航空会社すべてが経営赤字を出した。日本の航空会社も例外ではなく、世界の航空業界の経営は悪化した。

 トロントの中国系社会を中心としたSARSの流行では、いったん終息したと思われたので、カナダ当局は安全宣言を発表した。しかし、その後に小規模とはいえ2度目の流行が起こり、急ぎすぎた終息宣言への反省も起きた。

 SARSのこれらの教訓が次第に広く認識されるようになって、まだ完全ではないが、世界各国で感染症の情報は発生の早い段階から公表しようという方向に意識が変わり始めた。感染症のリスクマネジメントの重要性が、専門家以外にも広く意識されるようになったきっかけがSARSであった。

 

 

10.2012年中東でMERSの出現


 2012年9月、中東の国サウジアラビアでSARSに似た重症呼吸器疾患が見つかった。すぐに原因がコロナウイルス(図9.6)であり、それはSARSコロナウイルスに似ていることが明らかになった(図9.7)。発生が地域的には中東、特にサウジアラビアの国の滞在者か旅行者に限局していたので中東の名を冠にしてMERS(middle east respiratory syndrome、中東呼吸器症候群)と命名された。その主な症状は表9.1に示したとおりである。

 

図9.6 MERSコロナウイルスの電子顕微鏡写真

ウイルスはアルコール、界面活性剤で不活化する。遺伝子:RNA(+)

(出典 Centers for Disease Control and Prevention: “Middle East Respiratory Syndrome (MERS)”https:// www.cdc.gov/features/novelcoronavirus/)

 

 

図 9.7 Betacoronavirus の系統樹

(出典 Lau SK, et al. : Genetic characterization of Betacoronavirus lineage C viruses in bats reveals marked sequence divergence in the spike protein of Pipistrellus bat coronavirus HKU5 in Japanese Pipistrelle: implications for the origin   of the novel Middle East respiratory syndrome coronavirus. J Virol, 87 : 8638-8650, 2013)

 

 このウイルスは 2012 年当時サウジアラビアのジェッダにあるファキー病院(Dr. Soliman Fakeeh Hospital)にいたエジプト人の研究者ザキ Ali Mohamed Zaki が発見した*4。このウイルスの遺伝子の塩基配列は、ザキが共同研究しているオランダのエラスムス大学医学センター(Erasmus Medical Center)の研究者によって行われて、塩基配列の特許もエラスムス大学で取られた。この結果、サウジアラビアで分離されたウイルスの知的財産権がオランダに管理されることになり問題になっている。サウジアラビアの保健大臣はザキのこの不手際やMERSが聖地メッカへの巡礼への不利益要素になったことなどを問題にして、ザキを解雇した。彼は現在エジプトに戻っている。

 SARSとMERSの臨床症状は似通っており、症状だけでの鑑別は困難で、確定診断が必要である。幸い、2017年まで、両者の同時流行はない。

 多くのヒトコブラクダで抗体やウイルス遺伝子が検出され、子供のラクダで蔓延している風邪のウイルスであることがわかった。ラクダに接する職業の人は一般の人と比べて抗体陽性率が高く、ラクダへの直接の接触で感染したと考えられる症例もある。人への感染源はラクダであることは確定的である。コウモリから類似のウイルス遺伝子が検出されたので、MERSコロナウイルスはコウモリコロナウイルスを起源とし、遺伝子変異によってラクダに感染するようになった可能性が考えられた。しかし、元々ヒトコブラクダが自然宿主なのか、過去にコウモリのウイルスがラクダに感染してラクダに順化したものかは不明である。なお、中国新疆のタクラマカン砂漠からモンゴルのゴビ砂漠にかけて生息するフタコブラクダは、感染してない。

 MERSはSARSの時ほど、急速に他地域へは拡散しなかった。病原体の感染力の強さを表す基本再生産数という概念がありそれは1人の患者が何人の患者に感染させる可能性を持つか(2次感染者という)の数値で、その基本再生産数はMERS 0.8~1.3、インフルエンザ2~3、SARS 2~5、はしか16~21であり、たしかにMERSコロナウイルスの感染力は麻疹やインフルエンザよりも低い*5

 MERSコロナウイルスの受容体(レセプター)はDPP-4(dipeptidyl peptidase-4)であることがわかっている*6

 MERSもSARSと同様で、原因がウイルスなので抗菌薬は効かない。また、特有の治療法はなく、肺炎の治療と全身状態の改善を図る対症療法になる。

 

*4 Zaki AM, et al.: Isolation of a Novel Coronavirus from a Man with Pneumonia in Saudi Arabia. N Engl J Med, 367:1814-1820, 2012

*5 Cauchemez S, et al.: Middle East respiratory syndrome coronavirus: quantification of the extent of the epidemic, surveillance biases, and transmissibility. Lancet Infect Dis, 14: 50-56, 2014

*6 Raj VS, et al.: Dipeptidyl peptidase 4 is a functional recepter for the emerging human coronavirus-EMC. Nature, 495:251-254, 2013

 

 

11.韓国への飛び火


 MERS報告は2015年では25カ国(図9.8)であったが、2017年7月で27国になった(図9.9)。2018年2月現在、WHOの報告で患者数2,182人(死亡779人、致死率35.7%)。この中で圧倒的に多いのは、サウジアラビアで1,807人であり、これにつぐのが韓国185人である。時間を追って患者の発生数を見ると全体では2013年に拡大し(図9.9)、また韓国への飛び火は2015年5月4日に中東から仁川空港へ帰国した後、5月11日に発症した患者が第1号とされている。その後に、韓国で急速に患者が増えた(図9.9)。宿主動物ではなく、感染者が飛行機に乗ってウイルスを移動させたのであった。2014年の西アフリカのエボラの地域外への患者の移動とまったく同じであり、現代の感染症の遠距離拡大を象徴する飛び火現象であった。

 

 図9.8 MERSが患者報告された国(25か国)

(出典WHO:Middle East respiratory syndrome coronavirus Maps and epicurves http://www.who.int/csr/ disease/coronavirus_infections/maps-epicurves/en/)

 

 

図9.9 MERS患者確認例の経時的変化

(出典WHO:Middle East respiratory syndrome coronavirus Maps and epicurves http://www.who.int/csr/ coronavirus_infections/maps-epicurves/en/)

 

 韓国のMERSは短期間に終息したが、サウジアラビアでは、いまだに患者が発生しており(2018年2月時点)、SARSの時のように一過性で収束するのか、今後も患者が出続け、流行が続くのかは今のところ判然としない。

 

 

12.韓国における流行の背景


 韓国での急速な拡大にも、社会的・文化的な背景があることがわかった。その一つが、親族間の結束の固さであり、入院患者が出ると、多くの親族が見舞いに行くことに表れている。もう一つが、ドクターショッピングとでもいうべき現象で、患者は一つの病院だけでなく、いくつか病院をまわるという傾向である。これらが、患者の親族に加えて、一つの病院から他の病院へ広がることにつながった(図9.10)。韓国の患者は基本的には、ソウル市内にある病院の院内感染で広がったもので、市中感染ではない(表9.2)。

 

図9.10 韓国での感染拡大の流れ

(本図は権利の関係で公開しておりません。書籍をご覧ください)

 

 

表9.2 韓国における感染者の内訳

(150人、2015年6月15日)

 

 実際に、韓国の第1症例では、発症から隔離までに10日間かかり、その間4か所の医療機関を受診していたため、多数の医療従事者や患者らに接触する結果になった。そのため複数の医療機関で第1症例を発端にした二次感染および三次感染が発生し、6月8日の時点で6医療機関より64例の確定例が報告された*7

 韓国での反省点としては、初期対応の遅れであるが、それは①MERSが遠い中東の感染症であったことから、極東の韓国には関係ないという先入観から、医師・病院のMERSに対する認識が不足していた。②公衆衛生当局の情報開示が遅れたことによるものであろう。それも、対策の強化とともに次第に克服されて行き、流行は一過性に終息した。

 

*7 蜂巣友嗣、ほか:2015年韓国におけるMERSの流行(2015年10月現在)IASR, 36: 235-236, 2015.

 

 

13.備え


 SARSにしても、MERSにしても、それぞれの感染症の広がり方に、その国、その地域の社会的・文化的背景が影響することがあるという例である。

 第8章で述べた、アフリカ西部でのエボラの拡大の大きな要因の一つが、死者の埋葬時の習慣であったのも、この例に当てはまる。改めて、感染症対策に、国や地域の経済・医療レベル以外に、社会的・文化的背景への理解が大切であることを気付かされた感染拡大の様相であった。

 SARSもMERSも、未知の感染症が突然降って湧いたように発生した現場の混乱は、想像するだけでも大変なことであったと思われる。現場では、その経験を経て次第に新興感染症への対策・体制が整ってきて、被害を小さくできるようになってくる。

 日本でもSARS疑いの旅行者の日本訪問があり、大きな騒ぎになった。しかし、このことが感染症リスクマネジメントのよい訓練になった。幸い、日本では、SARSもMERSも今まで入っていない。2014年のアフリカ西部のエボラは入らなかったが、同じ年の東南アジアのデング熱は国内の一部で流行が起きた。新興感染症の輸入問題が年々厚生行政的・社会的関心を強めており、その度に日本でも体制がより整備され、訓練の熟度が増している。

 予防のためにそして被害を最小化するための感染症対策は、地味ではあるが、流行地への派遣経験や非流行地での訓練を経て良い体制・対策の整備につながる。

 


 

 

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